2018年06月08日

きょうもまた要らない気遣い

なんだそれ、自分勝手な気遣い。

きょうも透析の見送り。
予定時間よりも5分以上早く玄関でごそごそ靴を履こうとしている。
聞こえているから、下に降りていくけれど。

姑はつえをつきながら、不自由感を全面に押し出して、靴を履こうとしていた。
中途半端に手出しをすると、余計あぶないから、「まだ早いですけど、いいですか」と声をかける。
「待ってるのも暇やから、自分でやれることをやろうと思って。いつまでも世話になってばかりじゃあかんから。やらなきゃ」
こんなふうに書いてみると、とっても頑張っているお姑さんだと思われるだろうけれど、私には嫌味にしか聞こえない。
嫁さんは何もしてくれないから、あなたの世話にはなりませんよ、自分で何でもしないと誰も助けてくれませんから、、、そういうことを含んでいる。
私が素直じゃないのかもしれないけれど、一々が含みがあってかちんとくる。

外で一緒に迎えを待っていても「もういいから、一人でできるから中に入ってくれていいよ」という。
いつも同じことを言うけれど、この状況で姑を残して中に入れると思うのか?
どんな神経してるんですか。

タオルとか診察券だとかが入ったバッグは私が持っていて、いつも迎えに来てくれるドライバーさんに私が手渡す。
その前にドライバーさんは姑がこけたりしないようにに注意を払って、座るのを見届け、シートベルトをさせて、私からバッグを預かってドアをしめる。
「行ってまります」とドライバーさんの挨拶を受けて、私が「よろしくお願いします」と言って車が出るまで見送る。
私がいるから何かあったときの保障があって、ドライバーさんも安心できるし、私がたまに用事で出かけることがあっていないときは、きっとけがをさせてはいけないと責任を感じているだろうと思う。

全ては姑のために皆が動いている。
皆の見守りや手助けがあって、「自分でできること」があるのだ。

私を気遣っているつもりだろうけれど、勘違いしているのでは?
介護は自己満足だと言われる。そのとおりだと思うし、私も姑を助けることで満足しているところが大いにある。
だけど、介護されるほうも自分は頑張っている、人の助けがなくてもやっていけるという意地が介助する人との壁をつくっているのではないかと感じる。

介護されることを屈辱と感じたり、情けないと思ったり、それが意地になってしまうのかもしれないけれど、やってくれていることには「もういい」なんていう必要はない。
そもそも私たちの関係が変な気遣いをさせてしまっているのはわかっている。
でも、そこは、意地ではなくて素直に「ありがとう」でいいんじゃないの?


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思い出に浸って更新してます。「赤ちゃんとお布団」

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posted by ぱせり at 10:03 | Comment(0) | 嫁姑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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